ヒラオーノ雑記帳

山口県平生町の非公式ブログ(仮)です

駄コラム 3回目

投稿日時の設定をミスって、土曜日のぶんを公開してしまったので加筆。

中身の無いコンテンツを「カルピスを薄めたような」と表現することがありますが

私のブログは「乳酸菌を含む水」ですのでご安心(?)ください。

 

ibaya.hatenablog.com

 

今回目に止まったのはこちら。

Youtubeのキャッチコピー「好きなことで、生きていく」のような

読む人の人生観を試すパワーワードなタイトルです。

私は常日頃から「田舎で暮らすことがそんなに難しいことなのだろうか」と思っている人間でした。

住居は持ち家ですし、収入も確保できているので、甘ったれな物言いなのは重々承知なのですが

「既に確立済みの人間関係」や「お気に入りのお店」とか「景色、匂い、音、自然的、あるいは人工的なインフラ」などを度外視した場合

単純に人が生活をする上で楽なのは都会より田舎だよなぁと思ってしまうのです。

上記の条件を、そっくりそのままダンボールに詰めて一緒に引っ越しできるとしたら

ほとんどの人が地方移住しちゃうんじゃないかと。

現実的に考えれば住居と仕事に縛られてしまうんですけどね。

 

さてさて、タイトルだけで10行も稼げてしまったので本題に。

この方の「ホームでレス」な生き方は、ある種実験的で方向性が違うのかもしれませんが

ネット上でいわゆる乞食的行為をする流行が10年ほど前から都市部で見られるようになってきました。

いわく、「潜在的に他者との交わりを欲している人同士のwin-winな関係」だとか

「いやいや、甘ったれな人間同士の傷のなめ合いだよ」とか

現象を分析する上で色んな立場からの意見があると思うのですが

これらネット上の乞食行為としてパイオニアと呼ばれる人物に「pha」さんという方がいます。

 

オタク、ニート、引きこもり、精神病などを抱える人々が、共同で生活する場所を提供していたことから「ネオニート」「スーパーニート」などと呼ばれた方です。

ネット上で文章を投稿して広告収入を得たり、食料や生活品を宅急便、あるいは直接持ち込みで支援するパトロンを抱えていたりと、面白い生き方をしています。

この人にフォーカスしたドキュメント番組で、以下のような発言がありました。

「インターネットでは、昔からモノをタダで分け与える文化がある。これはその延長線上にあるものだ」といった趣旨だったと思います。

私はこれを聞いて「それは複製が無限に行えるデータの話であって、そもそも持ち主もタダで得たものが大半では」と思ったのですが

その一方で、インターネットに傾倒する人たちの「それ、俺ができるからやろうか?」という動きが珍しくないことも思い出しました。

(ちなみにインターネット黎明期の1990年代末の話です)

 

今のようにSNSがメジャーではない時代において、献身的な(大抵の場合、多少の技術を要する)ボランティアはあまり脚光を浴びることはなく

当事者のみで「」と文字通り神格化されていました。

他人から褒められる(承認される)快感、ネット空間の限られた部分でだけでも、神になれる喜びもあったと思います。

それと同時に「今この瞬間は、自分たちで創りあげている」という実感も大きかったと思います。

同じ空間を共有する人たちが、コンテンツを評価し、改善し、その手段をマネジメントし、スケジューリングする。

そういった自治行為は、昔ながらの田舎そのものではないのか。

 

そう考えてしまうと、ネット上でとはいえ所詮乞食行為と、見下していた私の価値観が

同じネットワークを構築する個体同士の互助」という、至極当たり前の見方に気付いたのでした。

どうしてこんな簡単な現象分析に至らなかったのでしょう。

楽しいことを自分たちで見つけて、自分たちで楽しむ。ネットの「祭り」も、地域の「祭り」も、その本質は同じだったのですね。

近所のおばさんが米と野菜を交換する、ブロガーの記事を読んでamazonウィッシュリストをクリックする。

これも本質的には同じ・・・なんだろうか。

 

ネットとリアル。匿名という視点から議論を呼ぶこともありますが

匿名であっても、リアルと変わらない精神活動が行われるのもまた、面白いことです。